ジーニアスオールザタイム

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フリーゲームの批判とは

大原則として、批判を望んでいる人のみを対象とする。
趣味は、「争わなくてもいい」というのも利点の一つだと思うからだ。


商業の場合、売れることが目的となる。

フリーゲームの場合、必ずしもそうではない。
人気になりたい、というのは大半の制作者が思うことだが、優先順位としては「自分が作りたいものを作る」を上位に置いている人が多いと思う。

一般論で「こうした方が人気になる」というアドバイスはあまり意味がない。


だから、フリーゲームの批判をする場合、まず「作者が何を作りたいのか」を知る必要がある。
そして、作者がどの程度のレベルを求めているかも知っておいた方がよい。

1000DLを目指しているのか、世界一を目指しているのかでも、批判する内容は変わってくる。



師匠(アヴァロンの人)を例にしてみよう。


このように、師匠が求めてるレベルは非常に高い。


師匠の作品の中に『トリアージ勇者』という作品がある。

作者の目指しているものだとか、作品外の情報を取っ払ってプレイすると、「こういう作品があってもいいよね」という出来の作品だった。特に批判もない。


ただ師匠が求めているレベルを考えると話は変わってくる。
「オリジナルを目指さない者が創作者を名乗るな」、という発言と照らし合わせてみると、『トリアージ勇者』は特にオリジナル性は感じない凡な作品だった。

作者の目指しているレベルに到達してないどころか、到達しようという意志すら感じない。
僕が『トリアージ勇者』を師匠の作品の中で最も駄作だと評価している理由はそこにある。




師匠のやりたいことは、世界を救うことである。

作品を通して、あるいはレスバや説教を通して、師匠は世界を救おうと日々活動している。


まず思うのは、世界を救いたいならゲームを作ってる場合ではないと思う。
少なくとも、プレイ人口の少ないフリーゲームではダメだ。


なぜ世界を救う手段としてフリーゲームを選んだのか。理由は謎だがSNS等を見ると、本当は学者として世界を救おうとしたのだと思う。

それが道半ばで挫折し、フリーゲームを選んだのは代替手段――苦肉の策だったのだと察せられる。


でもね、人に説教するくらいだったら、人間嫌いだからとか頭が悪かったからとか言い訳せずに、何が何でも学者になるべきだったと思う。
それが無理なら、せめて宗教でも立ち上げて教祖になればよかったのに。


まぁ、ここまで行くと飛躍しすぎというか、身も蓋もないので、あくまでフリーゲームの内容という枠に制限して批判をする。


師匠には「隠れてるものの方が面白い」という信条がある。

だから一見クソゲーに見えるように擬態するし、サムネイルやら概要が訴求力に欠けているし、毎回作者名を伏せてコンテストにエントリーする。

全部わざと、意識的にやっている。


これを行っているが、ただのエンタメ全振りの作者だったわかる。大いにやってくれとむしろ応援する。
「隠れてるものの方が面白い」という考えそのもの自体は理解できるからだ。


しかし、そこに「世界を救いたい」という欲求があったらどうだろう。
世界を救いたいのなら、どうしたって拡散性は必要ではないか。
いたずらにプレイ人口を減らす行いは、師匠の一番やりたいこととは食い合わせが悪いと言える。


冷やかしではなく、本当に世界を救おうとしているのなら、何でもかんでも本能で自分のやりたいようにするのではなく、世界を救うという一番やりたいことに適したデザインにするべきだ。







とまぁこんな感じで、作者のやりたいことを調べて、そこからズレているものを批判するのが、フリーゲームの理想的な批判の仕方だ。
――と思っていたのだが、実際問題点はあった。

作者の自己申告に嘘がある場合が多い。

そして他のプレイヤーは作者の求めているレベルなど知らないし、ご覧いただいた通り、普通の感想とはだいぶ異なる内容になるので共感が得られないということだ。